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    練吉は軽く頭を下げながら、相手の房一がいきなり直立不動のやうに足をそろへたのを見た。

    房一が云ふと、喜作は突然びつくりするほど大きな口を開けて笑つた。

    「どうしたんですの?何かあつたんですか」

    さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えていた草を片手でむしりとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでいる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。

    と、房一が声をかけた。

    第四章

    こゝの当主はもう七十近い老人だが、まだ郡制のあつた先年まで郡の医師会長だつた人で、この地方での一二と云はれる有力者でもあつた。それに相当な地主だ。その政治上の勢力や小作人関係などからきている彼の家と患者との関係は一朝一夕になつたものではない。今では老医師の正文は半ば隠居役で、息子の練吉といふ若医師が診察の方はひきうけているのだが、中には「老先生の患者」といふ者もある位だ。

    「おい、ビールは冷やしてあるかい」

    「いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが」

    高等科がすむと、彼は突然、法律を勉強しに東京へ出たいと申出て、父を驚かせた。家中の者の反対にもかゝはらず彼は頑として自分の希望を捨てなかつた。するうち、彼の姿が突然見えなくなつた。二三日して、彼は又帰つて来たので一同は安心したが、その間に彼は上流の城下町にある彼の死母の実家へ行つたのであつた。そこの伯父はその町で瓦焼工場を経営していた。頭の鋭い狷介けんかいな老人で、非常な毒舌家であつた。しかしこの老人は毒舌を一種の愛嬌と他人からは思はれるやうな独特な人柄を持つていて、悪口を言ひながら世話を見てくれる、と人から評判されていた。房一もやはりこの老人に手ひどく罵倒された。百姓はやはり百姓をしろ、と云はれて、房一はすつかり悄気しよげて、その晩はそこで泊めて貰つたが、翌朝になると、一通の手紙を示して、これを持つて町の弁護士の所へ行つてみろ、と云つた。弁護士は手紙を読んで、親切に色々なことを話してくれた。彼もやはり苦学して弁護士の資格をとつた男であつた。その晩、伯父は、苦しくもやる気か、と訊いて、それから外そつぽを向いて、やる気なら餞別に少しばかりの金なら出してやるがその前にもう一度家から承諾を得て来い、と云つた。

    「さやうでござりますか」

    それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じていたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつていた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残していた。

    何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がいた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫していた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。

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