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    しかし、正文は自分が練吉のこねまはす泥の中に足をとられているなどとはつひぞ思ひもしなかつた。外面的に折目立つたことの好きな正文には、どうにかうはべの恰好さへつけば安心するのである。練吉が男の子を一人抱へていつまでも独身では心許こゝろもとなかつた。だが、手を焼いている。そのうち、練吉は自分の気に入つた女を見つけた。今度は息子が好きで選んだからよからうと、正文はすぐに事を運んだ。それが茂子である。

    三十分もたつた頃、自動車は角屋の表で停つた。そこは国道が河原町に入らうとする曲り角で、角屋は国道に沿ひ、裏は河に臨んだ旅館である。責任者としての房一と神原喜作がそこにやつて来た時には、署長はまだ加藤巡査の報告を受けている最中だつた。若し房一達の来るのがもう少し遅れたら、加藤巡査の報告もあやふやになり、署長はじめを現場へ案内せざるを得ない破目はめにもなつただらう。そして、事は出張所の消防演習を火事と誤認して人だかりがしたのに過ぎず、事実が判明するにつれて漸次分散して行つた、といふことに落ちついた。全く一時は成行を憂慮された事態も、落着してしまへば、事実その通りにちがひなかつたのである。

    と、盛子は声をかけて、その方へ向いて近づきながら、だが、そこに房一とは違ふ男の顔がうす暗がりの中で何だかためらひ気味に、中へ入りもしないで口をもごもごさせて突立つているのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。

    徳次は自分のことのやうに熱心に路順を考へた。

    「へえ、どういふわけでせう」

    そのとき、横の襖が開いて、三十近い年の、髷なしの束髪に結つた女が茶を持つて入つて来た。色の白いわりに顎の張つたその顔は、気の強さと或る物悲しさとが入りまじつたやゝ冷い表情をしていた。正文は息子の嫁だと云つて引合せた。房一はそれで急に練吉のことを思ひ出して、お目にかゝりたいと云つた。

    さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しなのある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つていた。

    男は力なげに口をあけていた。

    徳次は一種くさめをする前のやうな、煙けむたげな表情になりながらわき見をしたり、房一を眺めたり、どぎまぎして答へた。

    それは何となく不思議なことだつた。家にいたところで別に賑かに喋しやべり立てるわけでもなし、むしろ年中窮屈さうに不服ありげに無口で固い顔をしている茂子が、今この家にいないと知つただけで、こんなに伸び伸びし、自分がさう思ふだけでなく、そこらにある家具までが何となく気楽さうに見えるとは!

    が、一隊がふたゝび町中にさしかゝつて来ると、汗と埃でよごれ、ゆるんだ表情の彼等に見られるありありとした疲労は、待ちうけていた見物人達にたちまち同情と心配をひき起した。今や、この一隊は紙衣の神官でもなければ行列でもなく、見物人達の良人をつとであり、父親であり、主人であつた。草履の代りに下駄が、下駄の代りに草履がはき代へさせられ、手拭を出し、熱い番茶を持つて来、中には自宅の縁側に悠々と一休みして行く者さへあつた。

    二人とも巻ゲートルに地下足袋姿であつた。そのうちの一人は印袢纏しるしばんてんを着ていた。房一の見たこともない連中だつた。だが、先方ではこの釣竿をかついだ猪首のやうな男が目ざすお医者だと気づいたのだらう、印袢纏の背の高い男は黄く汚れた半シャツの男に向つて、こちらを見ながら何か云つていた。

    今泉の読んだのは予定記事だつた。だが、早のみこみと、簡単な熱中家が造作もなくつくり上げる本当らしさ、それによつてなほ熱中するといふあの癖とによつて、彼はそれをすでにあつたことのやうに話しこんだ。若し、他にまだ話したくてたまらないことがなかつたら、この報告はもつとくはしく、もつと飛躍しただらう。

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